2014年2月8日土曜日

巷で話題の作曲者詐称について同業者の見解


 巷で話題の佐村河内という人物の作曲者詐称に関して。
 ネット上でも意外に代作者に非はなかったという論調が多い。むしろ名声のためでなく素敵な作品を書き続けた純粋で才能溢れた被害者という同情が多いように思う。確かに音大出たての若い作曲家にとって、札ビラきられて代作を持ちかけられれば一も二もなく引き受けるだろう事は、僕自身経験から実感として判る。ただそれを20年ちかくも延々と続けてきたとなれば、音楽家としてというより人間としての何かが少々欠けているという気はする。まあ、見たところ内気そうな当該人物、周囲によれば誠実な人柄のようであるし、つい言い出せずズルズル続けたのかも知れない。
 代作氏に較べて中心人物のいかがわしさは明白だ。言うことなすこと怪しくて相当なペテン野郎とは思う。とんでもない奴だ。
 だが、ふと考えるのだ。今回多くの音楽愛好家が「奇跡の」という謳い文句で騙された当の作品はいったい誰の作品というべきなのだろう。勿論、音符もかけない自称聾者の作品ではなく全てを書き上げた代作者の才能ゆえに仕上がったものだという人は多い。
だが僕の意見は少し違う。
 報道された作曲指示書なるものを見ると、驚くほど緻密なものだ。細かい区分に分かれた指示はかなり具体的で明解だ。イメージの元となる具体的な過去の音楽作品の例示にはじまり、音符はないまでも作風に関する技術的な要請やヒント。更に決定的なのは時間軸に沿った大雑多な緊張感や盛り上がりのフォルムまで決めてある。
 僕も比較的大規模な作品を書く時、心覚えや設計図として使うためこの種の表を作ることがある。箱書きと呼ばれるこの種の表の役割でもっとも重要なのは、時間軸にそってどの様な楽想なり音楽的な事件なりが展開するかの決定である。例えれば、8時に始まる時代劇でご老公の一行が8時何分にどんな事件に巻き込まれ、何分後にそれがどんな展開をし、同時にお待ちかねのお色気入浴シーンは何分にあり、悪代官と強欲商人の密談は何分からでその何分後にどんな長さのチャンバラがあり「ご紋の印籠」はいつ登場するか。ここまで決まればあとは細かい台詞をきめれば一話完成だ。

「机の横に置き、ある種のヒントとして、作曲する上で必要なものだったと思います」という代作氏の言葉が、その重要さを物語る。この感覚、世間の人達が理解するのは少し難しいかもしれない。

 元来作曲は地図のない旅のようなものだ。大天才でない限り標のない彷徨いは辛い。紙切れ一枚でも、すがる物が有れば大きな力になる。

 実際、作曲の作業で最も苦労するのは音符を並べる作業ではなく「何を」「どの様に」表現するかを絞り込む作業だ。いわゆるゼロをイチにする作業。これが決まってしまえば技術をもった作曲者ならば、あとは地道な作業が残るのみといってよい。もちろんその後の工程で、たまには天から降って湧いたような素敵な楽想や巧みな表現がうまれる事もあるわけだが、そうしたセレンディピティーはなくてもそれなりの作品はできるものだ。

 つまり作品の出発点となるある意味では最も重要な作業をペテン師君がしたのだから、彼が自作と言い張ってもあながち嘘ではないともいえるのだ。僕が言いたいのは、善し悪しは別として作品の成立過程におけるペテン師くんの果たした役割を世間では過小評価しているということだ。

 仮にペテン師くんの指示書なしに代作氏に今までと似たような世界観の曲を書けといっても難しいだろうと思う。意外に世間が気付いてないのは、お涙頂戴のストーリーで騙された悔しさはさておいて、冬の時代のクラシック界にひと時の人気をもたらした一連の作品は、この二人の奇妙な男達が出会い、それぞれの立場で自分の役割を果たした結果生みだされたということだ。

 
 だからペテン師くんを許してやれという積りは毛頭無い。
問題の作品はどれも、オリジナリティはないが美しい曲だ。ただ、それ以上でもそれ以下でもない。いまこの騒ぎの中で性急に代作氏を庇ったり持ち上げたりするのは、あまり後味の良くない騒ぎの上に、更に似たような神話を積み重ねるようものだと思う。当の作曲家にも不幸なことだ。

 性急に貶したり持ち上げたりしなくとも作家や作品はやがては世の中に適性な居場所を見つける・・たぶん・・・いや、そういうものだと信じたい^^;

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